クイネルの歴史

ブリティッシュ・コロンビア州の北中部に住む先住民は、自分たちのことを'Uda ukelh' (uda ekel [ユーダ エケル] "早朝にボートで水上を旅する人"と呼んでいました。一般的には隣接するセカネー族(se-kan-ee [セカネー] )が彼らにつけた名前の英訳、Carrier (car-re-er [キャリアー])のほうが知られています。この先住民に最初に会ったヨーロッパ人は、太平洋までの旅の途中で彼らの土地を通過したアレグザンダー・マッケンジー(Alexander Mackenzie)で、セカネー族からクイネルの先住民のことを聞き、文書でCarrierという言葉を使いました。 (A more extensive history of the Dakelh/Carrier people can be found on the Footprints in Stone website developed with the assistance of the Southern Carrier Nations.)

1808年には、サイモン・フレーザー(Simon Fraser)が運び屋とともに太平洋への航行可能なルートを求めて、現在のフレーザー川を探検しました。モントリオールに本拠を置いた毛皮交易会社、北西会社のためで、マッケンジーの探検で知られているフレーザー川上流は、コロンビア川の源流と誤って考えられていました。フレーザー川は探検には危険すぎることが分かりましたが、多数の先住民族と交易関係を築き、ロッキー以西で、毛皮交易所制度の開発を導くことになります。サイモン・フレーザーは自分たちが見つけた最初の主な支流を、事務官、ジュールズ・モーリス・クイネル(Jules Maurice Quesnel)にちなんで名づけました。クイネル川とフレーザー川の分岐点で最終的に育ったコミュニティも、クイネルと呼ばれるようになります。 (メモリの川の詳細については、)

その後、1857年にフレーザー川で金が見つかったことで、ゴールドラッシュが始まり、権利を求めて採掘者が殺到しました。1859年までには、これらの人々はクイネル川に達しています。1861年のウィリアムズクリーク(Williams Creek)での大きな発見が、カリブーゴールドラッシュの引き金となり、バーカービル(Barkerville)の町が成長しました。ピーク時には、このブームに沸く町は、シカゴ以西、サンフランシスコ以北で最多の人口を誇ったと言われています。植民地政府は1861年に、金鉱採掘に入植した人たちに、より安全で、費用の安いルートを提供するため、カリブーワゴンロードの建設を始めました。当初、この道はリルエット(Lillooet)からソーダクリーク(Soda Creek)までで、物品や旅人はクイネルまでの外輪船に乗り換えました。最終的には道はクイネルを通りバーカービルまで達しています。場所柄、クイネルは金鉱地への主な経由地、供給地となり、1863年に町の測量が終わり、企業や住民が増えました。 (金のトレイル)

クイネルは創設当初からの多文化コミュニティです。1860年代の天然痘や麻疹の流行で人口が激減した先住民は、季節によって狩猟や採集でテリトリーを移動するという伝統的な暮らしを続けていました。重要なフィッシングキャンプがクイネルのそばにあるほか、先住民は交易やコミュニティのお祝いに参加するため、町を訪れることもありました。1860年初めには中国人の鉱山労働者がクイネル川河口のバーで働いていましたが、その多くは、まもなくして、サービスを提供して、肉や野菜を育てる事業、店舗になります。クイネルの残りの人たちは、カナダ東部、米国、欧州諸国の出身です。短期滞在者が多かったものの、20世紀にかけてコミュニティのサイズは比較的安定していて、いわゆる"白人"と"中国系移民"が半々でした。