クイネルの歴史 - 2

1865年にはコリンズオーバーランドテレグラフ(Collins Overland Telegraph)がクイネルに到達。コリンズはカリフォルニアからモスクワまでの通信網を築き、北米と欧州間の電報通信を提供しようとしたものです。ケーブルが大西洋を渡った1866年にプロジェクトは中止されましたが、クイネル南部のケーブルは残り、北への重要な通信回線、電報回線となったことで、クイネルは引き続き、北への探検、資源採取、入植での供給センターとしての役割を果たしてきました。これは、1921年にクイネルに達したパシフィックグレートイースタン鉄道の建設で、促進されました。コットンウッド川に橋を架けるのが困難であったことから、回線がプリンスジョージとCN鉄道に接続する1952 年まではクイネルが北の終着点でした。ウェルズ(Wells)でカリブーゴールドクオーツ鉱山(Cariboo Gold Quartz Mine)が開かれたことで、カナダの多くのほかの地域が大恐慌に苦しむ中、クイネルはさらに栄えます。

林産業は常に経済の一部を担っていましたが、建築、燃料、パシフィックグレートイースタン鉄道建設時には鉄道の枕木と、主に地元で使用されていました。第二次世界大戦中はモスキート爆撃機を造るための合板製造にバーチを伐採。1942年の記事によると、バーナビー市のパシフィックベニアカンパニーが大英帝国の航空機用合板で最大のメーカーで、バーチの半分はクイネルから送られています。1945年には、ウエールズの炭鉱労働者のための坑道支柱買い付けにバイヤーが町を訪れ、ブームを迎えます。米国の市場が成長して、パルプや合板製品が開発されて、林産業が急速に発展、運送が改善しました。1948年、33ヶ所の製材所がクイネルから径30マイル(48.3キロ)内に登録されています。1952年までには180ヶ所になり、加えてプレーナー工場が5ヶ所となりました。50年代が進むに連れ、より規模の大きい企業へと運営が統合されて、製材所の数は減少します。

フレーザー川に架かる橋は1929年の架設。橋は川の西岸でコミュニティの発展をもたらしました。クイネルとウエストクイネルの村は1955年に合併して、1958年に町になりました。自治体はさらに強い力を得て、道路の舗装や街路電燈、新しい水道システム、公会堂、アリーナなど、地元のインフラプロジェクトのために融資を得ます。天然ガスの供給線、高校の合併と施設の改善、G.R. ベーカー・メモリアル病院などは州のイニシアチブの一部です。

製材所の発展で新たに移民が訪れます。その多くはインドからでした。1973年には、成長したインド系カナダ人のコミュニティが、シーク寺院を建設。インド系移民が不動産投資を行い、ホスピタリティ産業に重要な役割を果たすようになり、クイネルの文化生活を豊かにしました。

その後もクイネルは成長を続け、1979年には市になりました。今日、パルプ工場2ヶ所、製材所5ヶ所、合板と中密度繊維板(MDF)工場1ヵ所、加えて規模の小さい付加価値製品製造施設が数ヵ所あり、クイネルの主な産業は林業です。市の工業地域は北米で最も林産品製造が盛んです。また農業、鉱業、観光業もクイネル経済の重要な部分を引き続き担っていきます。